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- 萬翠楼福住の歴史
明治初期建造の旧館「萬翠樓」と「金泉樓」は伝統的な数奇屋風の日本建築と西洋の技法や意匠を融合した擬洋風建築です。
「神奈川の建築100選」に選ばれ、平成十四年には現役旅館として初めて国の重要文化財建造物に指定されました。
西暦 | 福住旅館事跡および関連する出来事 |
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757 | 箱根湯本温泉、加賀白山の浄定坊により開湯と伝わる箱根湯本温泉、加賀白山の浄定坊により開湯と伝わる |
1625 | 初代福住監物、福住旅館創業 |
1805 | 湯本、一夜湯治の一件起きる |
1811 | 箱根七湯ユの現代で言う温泉案内「七湯の枝折」出来る |
1850 | 十代目福住九蔵(後の正兄)、二宮尊徳先生門人より当家に婿入りする |
1851 | 歌川広重福住旅館に滞在する(五月~六月) 十代目福住九蔵、湯本村名主拝命 |
この頃、広重に依頼した福住九蔵版「七湯方角略図」「箱根湯本福住九蔵宅図」発行 | |
1868 | 戊辰戦争山崎の戦い。十代目福住九蔵も危うく処罰を受けそうになる |
1869 | 木戸孝允様、ご逗留になる |
1870 | 福沢諭吉様、初めて当館にご逗留になる。以後様々にお知恵を頂く |
1871 | 山内容堂様、御逗留になる 十代目福住九蔵、家督を長男政吉に譲り「正兄」と称す 小田原県を廃止し、足柄県が置オかれる |
1872 | 昭憲皇太后陛下、福住旅館に行啓を賜る |
日本で最初の陸蒸気、新橋-横浜間で開業 | |
1873 | 福沢諭吉「足柄新聞」にて、箱根の道路整備について辛辣な提言をなさる |
1874 | 木戸孝允様、ご逗留 |
1875 | 板橋-湯本間カン新道工事七月着手、9月開通 |
1876 | 正兄、板橋の大工棟梁三宅安七を伴い東京・横浜方面視察 金泉楼建設着手 3月 湯場までの新道開通「金泉楼」上棟 5月 井上馨様、ご逗留になる 6月 塔ノ沢までの車道、山越えルートで開通 7月 木戸孝允様、東京への帰途にお立ち寄。「萬翠楼」扁額を揮毫くださる |
1877 | 「萬翠楼」建設着手 金泉楼ロウは先に営業開始 塔ノ沢で静養中の皇女和宮様、当館の湯をご利用になる |
1878 | 山口仙之助氏、富士屋ホテル開業 萬翠楼竣工 12月 |
1879 | 成島柳北様、ご逗留になる |
1880 | 伊藤博文様、松方正義様等とご逗留になる |
1882 | 成島柳北様ご逗留、書を揮毫くださる 久保田米僊他の皆様ご逗留。画を描かれる |
1884 | 三条実美様、ご逗留になる |
1885 | 三枚橋-湯場バ間新道拡張工事着手 4月 有栖川宮熾仁親王、ご逗留になる三枚橋-湯場間新道拡張工事完成 9月 「旭日橋」架け替えなる。三条実美様渡り初め下さる |
1886 | 湯本-塔の沢車道開通(早川沿いルート) 小田原・箱根の有力者、東海道線箱根誘致の請願を提出 |
1887 | 山県有朋様、休息にお立ち寄になる 塔ノ沢-宮下間車道開通 |
1888 | 小田原馬車鉄道(株)設立 2月 国府津-湯本間馬車鉄道開通 |
1889 | 宮ノ下-宮城野ノ間車道開通 東海道線全線開通 |
1892 | 湯本水力発電所完成 五月 福住正兄没 五月 湯本水力発電所供給開始。日本で二番目の営業用水力発電所 六月 |
1893 | 福住旅館前の道付け替えにより、旭日橋移設 |
1900 | 国府津-湯本間の馬車鉄道が、小田原電気鉄道により電化、電車開通 |
西暦 | 福住旅館事跡および関連する出来事 |
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1901 | 滝廉太郎「箱根八里」を作曲発表 |
1902 | 七湯の旅館、わが国最初の特設電話設置 湯本・宮ノ下において電話交換業務開始 |
1904 | 宮ノ下-芦の湯-箱根町(現箱根恩師公園)間、車道開通 |
1912 | 志賀直哉様、休息にお立ち寄りになる |
1913 | 小田原電気鉄道㈱ハイヤー営業開始 |
1917 | 田村俊子様、ご逗留下さる |
1919 | 湯本-強羅間に登山電車開通 国府津-箱根間運行開始 |
1920 | 第一回東京-箱根間大学駅伝競走始まる 第一回国勢調査実施。箱根全山人口8,379人 鉄道省線小田原駅開業 箱根遊船設立 |
1923 | 関東大震災罹災。現在の明治棟も損傷受ける |
1926 | 温泉掘削の許認可記載が始まる |
1927 | 小田急電鉄、新宿-小田原間運行開始 箱根温泉台帳整備される。当時所管は警察 |
1931 | 満州事変勃発 旧街道畑宿経由、湯本-箱根間バス運行開始 塔の沢函嶺洞門竣工 |
1934 | 丹那トンネル開通、東海道線小田原経由になる |
1935 | 箱根観光博覧会湯本で開催。大名行列始まる 強羅-早雲山間ケーブルカー開通 |
1936 | 富士箱根国立公園に指定される |
1941 | 太平洋戦争開戦 |
1943 | 箱根全山路線バス、木炭車となる |
1944 | 集団学童疎開第一陣受入れ始まる 当館には横浜国民学校が疎開となる |
1945 | 終戦 |
1947 | 東京-箱根間大学駅伝競走復活 |
1948 | アイオン台風により箱根全山被害甚大 |
1950 | 小田急線、小田原-湯本間乗り入イれ開始 箱根観光船開業、運行開始 |
1952 | 当館法人化なる。有限会社湯本福住設立 |
1957 | 小田急特急ロマンスカー運行開始 駒ケ岳ケーブルカー開通 |
1958 | 東京タワー完成。高さ333M |
1959 | 小田原保健所に全国初の温泉室設置 |
1960 | 箱根ロープウエイ早雲山-桃源台間全線開通、箱根ゴールデンコース完成 |
1961 | 神奈川県温泉研究所新設 |
1962 | 箱根新道(箱根バイパス開通) |
1963 | 駒ケ岳ロープウェイ開通。箱根スカイラインコース完成 |
1965 | 箱根ターンパイク開通 |
1969 | 東名高速開通 |
1970 | 箱根大名行列、大阪万博参加 |
1994 | 当館にて第一回となる江戸芸能研鑽会披露目旅タビ催行、以来毎年開催中 |
1997 | 福住旅館萬翠楼・金泉楼、国登録文化財となる |
2002 | 福住旅館萬翠楼・金泉楼、国重要文化財に指定される 12月 |
2003 | 福住旅館別館(現在平賀敬美術館として使用中)、国登録文化財となる 3月 |
平成14年12月28日に国内の貴重な文化財として、
登録認定されました。
当館の創業は寛永2年(1625年)です。箱根かごかき唄に「晩の泊まりは箱根か三島ただし湯本の福住か」とうたわれ、江戸時代から旅人や湯治客に親しまれてまいりました。
明治12年(1879年)、十代目主人の福住正兄(まさえ)は西洋建築と数寄屋造りが融合する、意匠を凝らした建物を完成させます。
その建物(現在の旧館)は現存する希少な擬洋風建築として、国の登録有形文化財となり、神奈川県からは“かながわの建築物100選”に選ばれました。
また、当館は昭憲皇太后、有栖川宮熾仁親王、木戸孝充、井上馨、伊藤博文、福沢諭吉、市村羽左衛門、尾上菊五郎、河竹黙阿弥といった多くの文人墨客をお迎えしてまいりました。
萬翠樓の名は明治9年(1876年)、木戸孝充公がご逗留の際にいただいたものです。
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天井画で知られる「萬翠楼15号室」。
富士山や花など48枚が描かれています。 -
当館の蔵から出てきた布地で、漢字の「福住」を単純化した模様は、同時に“住”の字がほかの言葉にも読めます。正確な記録は残っていませんが、ちょっとした洒落を効かせているところから、十代目主人、正兄の時代のものかもしれません。現在は旧館の廊下に飾ってあります。
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明治9年(1876年)に竣工した旧館前楼は、和と洋のスタイルが融合する、明治期においてはたいへんモダンな建物でした。多くの文人墨客にも愛され、写真の部屋は森鴎外が明治43年(1910年)に発表した小説「青年」の舞台になったと推測できます。また、昭和30年代には、夏ともなると窓の外の屋根に床を張り、ひさしを掛け、お客様に夕食を露天でとっていただくこともあったと伝えられています。
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旧館が建てられた明治初期、小田原の建て具職人は全国どこでも通用する最高水準の技術を誇っていました。窓が全開する上に、好きな位置でとめることのできる造りには、高度な職人芸が生きています。
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階段に細工をして、階段の明かりが部屋をほどよく照らすようにしたアイディアがユニークです。なお、螺旋状階段のステップ部は大きな一枚板を分割したものと思われます。
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自然の造型を生かした意匠。 明治12年(1879年)に竣工した旧館奥楼は、木の幹をほとんど削らずに使った柱に合わせて戸にカーブをつけたり、切り株を欄間に用いたりと、自然の造型を生かした意匠が特徴です。3年早く完成していた旧館前楼において、和洋折衷の大胆かつ華やかな意匠をふんだんに取り入れ、その成果に満足した正兄が、奥楼では自然との協調を求めたのではないでしょうか。若さがみなぎる前楼と円熟の奥楼は、その意味で対照的です。
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物入れがコンセントを隠しています。 旧館のいくつかの部屋には、コンセントを隠すようにして、三角コーナーの物入れがあります。推測ですが、電気がひかれたばかりのころ、コンセントが見えては無粋だからと、十一代目主人の政吉が据え付けたのではないでしょうか。
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館の障子格子はバリエーション豊かで、部屋ごとに模様が異なるほど。なかには見る位置によって模様が変わって見えるだまし絵のような格子もあり、職人芸を感じます。